今、列車が走る。後悔と懺悔を乗せた列車が・・・。
私は”湘南ライン”と呼ばれる通勤電車で仕事に行きます。この電車は同じ路線を走っている東海道線と比べると少し空いているのです。
その日、私はドアのそばで窓の外を流れていく風景を眺めてもの思いにふけっておりました。が、そのとき鼻腔を刺激する異臭が…。
誰かのオナラです。それは車内の湿度を上げてしまう程に臭く、どんなに顔をそむけてもまるで意志をもった生き物のようにまとわりついてくるのです。
犯人はいったい誰なんだ！ 私の朝の気分を台無しにした犯人…。
彼は素知らぬ顔ですぐそばにいるはずなのです。もし私が小学生だったならば、怪しい人物のお尻を嗅ぎまわってすぐに犯人を見つけだしたことでしょう。
しかし、ベテランの社会人となった今、そんな行為に出るわけにはいきません。犯人がすぐそばにいることを知りながらも見逃すしかないのです。
それにしても私は思います。人は成長するに従って、紳士や淑女になっていくべきではないでしょうか？
紳士なら電車の中では死にもの狂いでオナラを我慢するはずです。そんなこともできない人達は、強制的に”女性専用車両”の如く”オナラ専用車両”を設置してそこに隔離するべきなのです！ 私はＪＲ総裁に直談判したい気持ちでした。
…とそのときです。怒りに力んだためか、私はお腹に少し痛みを感じました。もしかして昨夜に飲んだ牛乳のせいでしょうか？
私のお腹には”便意”という名の強力な時限爆弾がセットされてしまったのです。
でも慌てることはありません。だって”湘南ライン”にはトイレ車両があるんですから。
私はトイレ車両にむかってソロソロと移動を開始しました。移動しながらも不吉な想像が頭をよぎります。もし誰かが既にトイレを占領していたら…。
こういう不吉な想像をしておけば、もし本当にトイレがふさがっていた時に精神的なダメージが少なくてすみます。自分に対してのこうした小さな心遣いは大切にしたいものです。
車内は比較的空いていることもあり、私はすぐに２両先にあったトイレ車両に辿り着くことができました。
トイレのドアは手動ではなく、脇についている開閉ボタンで操作するようになっています。脇のランプを見ると…状況は”空き”です！
私は”開く”ボタンを押すとトイレの中に入り、爆発時間まで間もない爆弾の処理にとりかかりました。
＝＝＝ ３行分自粛 ＝＝＝
爆弾処理を終えると、私はすっきりとした気分でズボンを上げました。こんなクサイ個室は一刻も早く出たいものです。
どうせ後に残った臭いは、次に入る人のせいになるのですから。私は”開く”ボタンを押しました。
…あれ？ 開かない。
自動ドアが壊れたのでしょうか？ このままトイレに閉じこめられて終着駅まで連れて行かれてしまったら…。無断欠勤で会社はリストラされてしまうかもしれません。
恐怖に襲われた私は必死で何度も”開く”ボタンを押しました。それはとても長い時間に感じましたが、実際には一瞬だったかもしれません。
その時、ドアが開きました！ ドアの外は…
ギュウギュウ詰めの満員状態！！
まるで手品を見ているような場面の変わりようです。私が爆弾処理をしている間に電車は人が大勢乗り込む横浜駅に停車したのです！
しかも到着時間が遅れていたため、乗り込んできた乗客でギュウギュウ詰めになった車内では、乗客達がトイレのドアに押しつけられてドアが開かなくなっていたのです。
私は反射的にドアの外に一歩を踏み出しました。トイレのすぐ外にはギリギリ立つことができるぐらいの空間があります。
早くドアを閉めなきゃ！ こうしている間にもトイレにこもった臭いが満員の車内に流れ出しています。
周囲の人が不愉快そうな表情を浮かべています。すぐ目の前に立っている女性は遠慮なく非難を込めた視線で私を突き刺します。
ひー！ すみません、すみません！
”閉める”ボタンを押さなくちゃ！！
えぇっと、ボタンは…どこにもない！？
いや、ボタンがなくなるはずがありません。ドアの脇にあるはずのボタンは、きっと壁に押しつけられた人々の背中で見えなくなっているのです。
私がそうして戸惑っている間にも、ドアが全開となったままのトイレからは異臭が漂い、周囲の視線が容赦なく私に襲いかかってきます。
き…気まずい…。皆さん、すみません、すみません！！ でも、私だってクサイんです！！！
私はこのまま目的駅まで、周囲の人々から非難の視線を浴び続けなければならないのでしょうか。そんな状況は辛すぎます！
でも仮にボタンの位置がわかったとしても、立っているだけが静一杯のこの状況ではボタンの位置まで手を伸ばせそうもありません。あぁ、どうすればいいのでしょう…どうすれば…。
そうだ！ 一カ所だけ動ける場所があります！
それは開いたままになっているトイレの中です！
『虎穴に入らずんば虎児を得ず！』
そうです！ 開いたままのトイレに飛び込んで内側の”閉める”ボタンを押し、ドアが閉まる直前に再び外に飛び出せばいいのです！！
異臭事件を終わらせるのにはこの方法しかありません。私は思いつくとすぐにトイレに飛び込みました。
内側から”閉める”ボタンを押して、外にと…あれ、ちょ…ちょっと…。
外に飛び出す前よりも早くドアが閉まってしまいました。
私は再びトイレの中に立たずんでいました。ドアが閉まり切る直前に、先ほど私に非難の視線を浴びせた女性と一瞬だけ目が合ったことを覚えています。
トイレの内側の壁には”開く”ボタンがあります。でも、私にはそのボタンを押す勇気はありませんでした。また周囲から非難の視線を浴び続けるなんて耐えられません！
私は目的駅に到着するまでの約20間、トイレに籠もったままでした。
私が籠城しているせいでトイレに入れずに自爆する人が現れ、その騒ぎに紛れて脱出できることを願いながら…。
by 静炉厳(05/05/05)
