わたしはどこにでもいる普通のサラリーマンです。
それは台風が近づいていて、今にも強い雨が降りそうな日のことでした。
電車の運行停止が心配だったわたしは、定時で仕事を切り上げると急いで会社を出たんです。
駅のホームは同じように家路を急ぐ人でいっぱいで、わたしは人波に押されるように電車に乗り込みました。
混みあう電車の中でうまく吊革を掴むことができたのでホッと一息つきます。
「こんにちわ」…そのとき隣に立っていた人が、突然、わたしに声をかけてきました。振り向くと取引先の方です。
こういうシチュエーションって苦手です。だって社交辞令みたいな会話をしなくちゃいけないんですから。
その人と会話をしながら、いくつめかの駅を過ぎた時のことです。不意にわたしのお尻に棒状のモノが襲いかかってきたんです！
ち…痴漢だ！！ はぁん！ 思わず声が出そうになっちゃいました。
でも、会話の途中で不自然に振り返ることはできません。わたしは少し涙目になりながらも何気なさを装い続けました。
右手は吊革を掴んでいるし、左手は鞄でふさがっています。そぉっとお尻をズラしてみても、それは…私のお尻のホールを直撃したままです。
いったい何？ 誰の仕業なの？ 電車の混雑に紛れてこんなことをするなんて！！ わたしは恥ずかしさと怒りで胸がいっぱいになりました。なんとか犯人を確認しなくちゃ…。
取引先の方との会話が途切れたときは、わたしは駅名を確認するフリをして後ろを振り返りました。わたしと背中合わせに立っている男がいます。こ…コイツが犯人なんだ！！
一瞬しか確認できなかったけど、その男は背が低くて、一見すると小学生のようでした。
いえ、間違いなく小学生です！ なんでこんな時間に…、もしかして塾帰り？ それとも黄昏れ一人旅？
でも、そんなことはどうでもいいんです。問題はそいつの肩掛け鞄に入っている棒…たぶん布サック入りの縦笛がわたしのお尻を直撃していることなんです！
<犯行現場>
この子、小学生なら何をしても許されると思ってるのかしら？ それにしても痴漢行為なんて…。こいつは変態です！
ほひょーー！！！ その時、少年がカバンをグッと背負い直したんです。この子、わたしが声を出せないことを知っててこんなことしてるんだ。
イ…イタイ…。ひ…広がっちゃう…もう止めてよぉ…。わたしは飛び上がりそうになりました。なんとか少年を注意して、こんなことは止めさせなくちゃ…。
でも振り向いて注意するには少年の背は低すぎて耳に届きそうもありません。手で振り払ったら？
だけど混んでいる車内では、吊革をもつ手を下ろすことさえ難しいんです。無理に手を下ろしたら、今度はわたしが隣の女性に痴漢だと思われてしまうかもしれません。
そうだ！ 少年が犯行に使用しているのは縦笛に違いありません。そして感触からすると、私に向けているのはきっと吹口の方です。
だったら、わたしがお尻から気体を放出することで、笛を鳴らすことができないでしょうか？ そしたら笛の音が周囲にＳＯＳを伝えてくれるはずです。
でも、もし失敗して笛を鳴らすことができず、気体が放出される瞬間に”屁”と呼ばれる音が響き渡ってしまったら？ いえ、うっかり固体が出てしまったなら？ そしたら、わたしは車内の笑いモノになってしまいます。そんなのイヤです…。
ひふぅー！ 電車が揺れました。縦笛がグイっと押されました。この少年…きっと、わたしが考えていることに気づいて警告を送ったんだ。
電車が次の駅に到着しました。少年は人の流れに乗って逃走していき、すぐに人混みに紛れて見えなくなりました。逃げられた！
きっと彼は自宅で、今日の成果を思い出して満足感に浸ることでしょう。そして翌日に学校で笛を吹きながらこう思うのです…
「今日の笛は一味違う」と。
そう考えると、わたしは悔しくてなりません。
by 静 炉巌(2002/7/14)
