かつて、”あしたのジョー”という人気アニメがありました。主人公のボクサー、ジョー（矢吹丈）が試合で打たれても打たれても、両手ぶらりのノーガード戦法で立ち向かう姿はとてつもなくカッコよく、私は番組を見終わるたびに、押入れの戸を開けては、布団に必殺パンチをかましたものです。いつかジョーのようになるんだと思いながら…。
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公衆トイレの個室にしゃがみながら、私の頭は少しずつ冷静になってきました。
さっきまでは頭に血がのぼって…いえ、逆です…頭から血が下がって、もう少しで貧血になりそうな青白い顔色だったはずです。しかし、頭が冴えてくるにしたがって、今度は右手がどんどんダルくなってきました…。
理由はわかっています。だって、和式の便器にまたがりながら、ドアのカギを右手でしっかりと掴み続けているからなのです。伸ばしきった腕はだんだんと重くなってきます。
今日の夕食は、会社の創立記念パーティでのバイキング料理でした。シェフがローストビーフを切り分ける演出にすっかり魅了された私は、肉を切る場面が見たくて何度もお代わりをしてしまったのです。
その結果、私は帰宅途中で腹痛に襲われ、お腹を押さえながらトイレを求めて見知らぬボロビルに飛び込むことになったのです。
もう少しで人間としての尊厳を失いそうだった私の目の前に、トイレはありました。私は走りました！ 個室に飛び込みました！ ドアを閉めました！
でも、そのドアは…カギが壊れていたのです。
おまけにドアは外側に開くタイプで、更にご丁寧なことに下の蝶番部分ははずれかかり、斜めになったドアは、ほっておくとスゥーと開いてしまうのです。
しかし、そんなことを気にしている場合ではありません。人間の尊厳がかかっているのです。私はつま先をドアの下に入れてドアを押さえながらズボンを脱ぎ、しゃがんでからは右手を伸ばしてドアのカギ部分を押さえ続けました。
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３行分自粛
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コトを終えた私は、しゃがんだままの姿勢でこれからのことを考えていました。”これから”とはいっても仕事や結婚など人生の節目についてではありません。”右手でドアをおさえたまま、どうやってパンツとズボンを履けばよいか”という近未来の課題についてです。
実際のところ、しゃがんだままの状態から立ち上がり、左手だけでパンツとズボンを履くのは至難のワザに思えます。だって拭くのだけでも大変だったのです。
もし、私がインド人だったら、どんなにか心強かったことでしょう。だって彼らは、左手だけで後始末ができるのです。
いや、まてよ！？ 今は右手でドアを押さえているけれど、もしもトイレのドアが左側についていたとしたら、彼らは左手でドアを押さえることになるわけで、そうすると神聖な右手では尻を拭くことができず、結局そのままの状態で一生トイレから出ることができなくなるのではないでしょうか？
トイレで暮らすにしても食事は必要なわけで、仮にインド人仲間が差し入れをもってきてくれたとしても、それはカレーに決まっているのです。トイレでカレーを食べる生活はイヤです。トイレはカレーを出すところなのです。
カギを押さえている右手はだんだん痺れてきました。おまけにしゃがんだ状態が続いているため足まで痺れつつあります。なにか手を打たねば…。
”あしたのジョー”の矢吹丈は、どんなに不利にみえる試合でも、気力で勝つことを続けました。私も、ここであきらめてはいけないのです。
そうだ！！ 考えてみれば悩むことはないのです。このトイレはさっきから人の気配がしません。誰かがくる前にドアを押さえている手を放し、ドアがと開いていく間に速攻でズボンをはいてしまえばいいのです！ これぞまさに…
ノーガード戦法です
私は右手をドアから放しました。ドアがゆらーりと開いていきます。私はすぐに立ち上がりました…いや、立ち上がろうとしました…が足が痺れてジーさんが立ちあがるようなノロノロスピードになってしまいます。
しかし、そのとき、私は見たのです。オッサンがギョッとした顔でドアの前に立っているのを！！！！ 丹下段平みたいな格好をしたおっさんが…！！
見られた！！！！！
私はストリッパーになってしまいました。私のお尻は、オッサンの視姦の餌食になっています。そしてオッサンは言いました。
「兄ちゃん。丸見えやで！」
わかってるって！！！！ そっちからドア閉めてくれよ！！！ 私は心の中で叫びながらズボンを中途半端にはくと、手も洗わずにこそこそとトイレから逃げだしました。
しかし、どうしても悔しいのです。その気持ちが納まらないのです！ 私はトイレに引き返しました。 今度はこっちの番です！
見てやる！！！！
カギが壊れたトイレに入ったオッサンは、結局、同じようにノーガード戦法を使うしかないのです。そのときこそ、クロスカウンターです！！
オッサンを指差して笑ってやるのです。だって、すぐに逃げれば半ケツ状態のオッサンに捕まるわけがありません。
トイレに戻ると個室のドアが閉まっています。今、オッサンは必死に右手でカギを押さえているのです。愚か者めが！！！
私は足音をたてないようにドアの前までいき、頭の中でシュミレーションを繰り返しました。ドアが開いてオッサンの尻姿が見えたら、ウヒヒヒーと憎らしく笑いながら指さして脱兎のごとく逃げるのです。
これまで泣きそうな気持ちでトイレの前に並んだことは何度もありましたが、これほど余裕の気持ちで並んだのははじめての経験でした。
水を流す音が聞こえました。いよいよノーガード戦法がはじまるのです。私は握り締めた右手の人差し指だけを立てて、あざ笑うスタンバイをしました。さぁ、みっともない姿をさらすがいい！ バカにしてやるぜ！
ガチャ…ドアがあきました。…あれっ？ オッサンは平然とでてきました。
もちろんズボンもはいています…。丸めたトイレットペーパーがポトリとドアの下に落ちました。あっ！！ オッサンはペーパーをドアの隙間に詰めていたのです。こ…この手があったかー！
私の完敗です。私はお尻をさらしてしまったただの惨めな男なのです…。そんな私におじさんは、驚いた表情で声をかけました。
「兄ちゃん、またウンチすんのか？！」
私はあいまいな笑みを浮かべながら、おじさんと入れ違いに再び個室に入りました。だってそうするしかないじゃないですか！ それ以外の行動をとるのは不自然な状態だったのです。
一呼吸だけ吸い込んだ空気は強烈な刺激臭に満ちていました。私はあらたな戦いのリングに立ったのです。
オッサンがここを去るまで息を止めていなければならないという一方的に不利な試合です。でも、そうしなければ臭くて死んでしまうのです。それに自分の肺の中ににオッサンの匂いの粒子を入れるのは一粒だってイヤなのです！！
オッサンは呑気に鼻歌なんかを歌いながら手を洗っています。早くいけよ！！！
人生に皮肉はつきものです。さっきは開かないように必死に押さえていたドアを、今は開けたくてたまりません。それにしても、なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
やがてオッサンの足音が去っていく音が聞こえたとき、私の脳は酸素不足でトリップしかけていました。
そしてドアを開けたとき、燃え尽きた私の心はまっ白な灰になっていたのです。
by 静 炉巌(00/08)
